敗者よ、復活せよ
私には人に誇れるような得意なスポーツはない。だから、スポーツはもっぱらテレビ観戦が主であるが近頃の小うるさい実況放送には辟易している、アナウンサーの絶叫を聞いただけでスイッチを切りたくなる。過度にショー化されたスポーツも興醒めする。
ウンザリしながらもしばらくは放送を眺めるが、我慢も限度に達して、ついにはスイッチを切ってしまう。私のような考えを持つ人は少なくないはずだが、上記の傾向はますますエスカレートしているような気がする。これらの手法はテレビ局が独自の美意識に基づいて作っていると言うよりは視聴者の望む最大公約数を具現化したものとみるのが妥当であろう。となると、私の考え方や感覚は少数派なのだ。私もだんだんと時代からズレ始めているようだ。まあ、しょうがないやね。
スポーツというと、もうひとつ気になることがある。野球選手がよくやる「ガッツポーズ」だ。ホームランを打った選手がベースを回るときに片手を挙げて「どうだ、今のホームランすごいだろう!」と誇示しているように見えるあのポーズのことだ。ガッツポーズというのは、私の解釈では「劣勢の時に自らを奮い立たせるために行うささやかなパフォーマンス」と言うことになるのだが、最近のよく目にするガッツポーズはどう見ても「勝利の雄叫び」にしか見えない。スポーツに限らず勝負事というのは一方に勝利者がいれば、片方は敗北者である。より多く努力したものが必ずしも勝利を手にするとは限らない。大変な努力をしたにも拘わらず、時の運や持って生まれた天分の差で負けることもある。しかし、敗者は「ああだこうだ」言わずに敗北を潔く受け容れる。スポーツが我々にカタルシスを与えてくれるのは、実にこの「潔さ」があるからだ。もちろん贔屓の選手が勝利した時に共有する「高揚感」も捨てがたいだが、私は敗北が決定したときの敗者ののうなだれ、敗北感に打ちひしがれているその姿を見るのも好きだ。感動を持って眺める。逆説的に言っているのではない。敗北が決まったときに彼の胸に去来するであろう勝ちたいがためにうちこんだ辛い練習のことや自分を支えてくれた人たちのこと、あるいは恋人のこと。やるせない屈辱感。簡単に気持ちの整理なんてできるわけがない。私には彼の複雑な胸中を知る由もないが、察することはできる。そして、今、まさに、敗者が「敗北の余韻」に浸っているとき、勝利者は傍らを、天に手を突き上げて、「勝利の雄叫び」をあげて通り過ぎる。。敗者の気持ちを慮れというのではない。歓喜のの気持ちを素直に表現することにケチをつけるつもりはない。表現の自由だから、どんなパフォーマンスをしようが自由だ。私が気に入らないのは「既成概念にとらわれない自由な表現」ができるのが若者の優れた点である、という私の思いこみを裏切って、猫も杓子も同じポーズをすることだ。若者よ、独創的であれ。手垢のついた表現なんてクソ食らえなんだぞ。
若者も生きている限りいずれは老いる。勝者も戦い続けている限りいつかは敗者になる。敗者だって復活することがあるのだぞ。言わなくても分かっているだろうが
ウンザリしながらもしばらくは放送を眺めるが、我慢も限度に達して、ついにはスイッチを切ってしまう。私のような考えを持つ人は少なくないはずだが、上記の傾向はますますエスカレートしているような気がする。これらの手法はテレビ局が独自の美意識に基づいて作っていると言うよりは視聴者の望む最大公約数を具現化したものとみるのが妥当であろう。となると、私の考え方や感覚は少数派なのだ。私もだんだんと時代からズレ始めているようだ。まあ、しょうがないやね。
スポーツというと、もうひとつ気になることがある。野球選手がよくやる「ガッツポーズ」だ。ホームランを打った選手がベースを回るときに片手を挙げて「どうだ、今のホームランすごいだろう!」と誇示しているように見えるあのポーズのことだ。ガッツポーズというのは、私の解釈では「劣勢の時に自らを奮い立たせるために行うささやかなパフォーマンス」と言うことになるのだが、最近のよく目にするガッツポーズはどう見ても「勝利の雄叫び」にしか見えない。スポーツに限らず勝負事というのは一方に勝利者がいれば、片方は敗北者である。より多く努力したものが必ずしも勝利を手にするとは限らない。大変な努力をしたにも拘わらず、時の運や持って生まれた天分の差で負けることもある。しかし、敗者は「ああだこうだ」言わずに敗北を潔く受け容れる。スポーツが我々にカタルシスを与えてくれるのは、実にこの「潔さ」があるからだ。もちろん贔屓の選手が勝利した時に共有する「高揚感」も捨てがたいだが、私は敗北が決定したときの敗者ののうなだれ、敗北感に打ちひしがれているその姿を見るのも好きだ。感動を持って眺める。逆説的に言っているのではない。敗北が決まったときに彼の胸に去来するであろう勝ちたいがためにうちこんだ辛い練習のことや自分を支えてくれた人たちのこと、あるいは恋人のこと。やるせない屈辱感。簡単に気持ちの整理なんてできるわけがない。私には彼の複雑な胸中を知る由もないが、察することはできる。そして、今、まさに、敗者が「敗北の余韻」に浸っているとき、勝利者は傍らを、天に手を突き上げて、「勝利の雄叫び」をあげて通り過ぎる。。敗者の気持ちを慮れというのではない。歓喜のの気持ちを素直に表現することにケチをつけるつもりはない。表現の自由だから、どんなパフォーマンスをしようが自由だ。私が気に入らないのは「既成概念にとらわれない自由な表現」ができるのが若者の優れた点である、という私の思いこみを裏切って、猫も杓子も同じポーズをすることだ。若者よ、独創的であれ。手垢のついた表現なんてクソ食らえなんだぞ。
若者も生きている限りいずれは老いる。勝者も戦い続けている限りいつかは敗者になる。敗者だって復活することがあるのだぞ。言わなくても分かっているだろうが
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COMMENTS
本来の姿…
高麗山さん、私が気に入らないのは
成人式や卒業式の来賓祝辞のように「定型化」しているスポーツ中継やガッツポーズです。独創まではもとめないけれどもせめて、思わずでたポーズ」の緒風情があればと・・・
5,500kmの旅、お気をつけて!お元気でお帰り下さい。
5,500kmの旅、お気をつけて!お元気でお帰り下さい。
No title
私は大相撲で負けた力士の去ってゆく姿が好きで、なんだかそんな自分が天の邪鬼みたいで嫌だったけど、ume さんの言うとおり、あれは口惜しさが思わず滲み出る姿だったから好感がもてたんだなと今納得しました。武双山がさいごに負けた時、ほんとにいろいろ思いめぐらしているのが手にとるようにわかりました。そして次の日彼は泣きながら引退しました。私も定型化したポーズは好みません。その選手のために少し恥ずかしくなるのです。
No title
スポーツ中継で,ひどいと思うのはバレー,サッカー,マラソンです。解説者は解説をしないで感想を述べるか,応援団です。アナウンサーは無意味な絶叫の連続です。特にバレーはタレントを動員してバラエティにしてしまっています。
それにしてもカーリングの中継はよかったといつも思います。解説者は解説をし,アナウンサーは「静かに」中継をしていました。
私がスポーツいつも最悪と思うのは,右手を右斜め前方にかざす開会式での選手宣誓です。言うまでもなくナチス式敬礼です。宣誓をする本人も,チームの指導者も,管轄する協会も国際常識に無知です。歴史的には,古代ローマ軍の敬礼方法ですが,ムッソリニーが復活させ,それをヒットラーが剽窃しシンボライズしました。
それにしてもカーリングの中継はよかったといつも思います。解説者は解説をし,アナウンサーは「静かに」中継をしていました。
私がスポーツいつも最悪と思うのは,右手を右斜め前方にかざす開会式での選手宣誓です。言うまでもなくナチス式敬礼です。宣誓をする本人も,チームの指導者も,管轄する協会も国際常識に無知です。歴史的には,古代ローマ軍の敬礼方法ですが,ムッソリニーが復活させ,それをヒットラーが剽窃しシンボライズしました。
ヘンリーさん、「勝ち誇る」というのがどうも趣味に合いません
趣味の問題だから、勝利の雄叫びは「どうぞご自由に」なんだけれど、それに引き替え、敗者の背中は私の想像力をかき立ててくれます。
gakiさん、「定型」は疑ってみないと
いけないようですね。あのポーズも歴史的背景を読み解くとそういうことなんですよね。そういえばメキシコシティオリンピックで「星条旗に敬意を表する」ことを拒否ぢた選手がいましたね。
懐かしい英雄です
カルロスとスミスです。2人は表彰台でうつむいて拳を天にかざしました。今でも私の英雄です。
なお,05年10月21日に私はこのことについて書きました。ご覧ください。
http://gakisroom.exblog.jp/2035002
なお,05年10月21日に私はこのことについて書きました。ご覧ください。
http://gakisroom.exblog.jp/2035002
ずれてます
スポーツはからっきしで、唯一人並みにできるのはスケートくらいですが、それとて勝った負けたのレベルには遠く及びません。
ですからガッツポーズには、することにも見ることにもまったく縁がなく過ごしてきました。
さて、じゃぁ僕がガッツポーズする時はどんな時かなと考えてみると、ギャンブルでしょうか。この世界は負けた人間への配慮は要らないかな、と。負ける人間がいなければ成り立ちませんもの。この辺は競技と違うところでしょうね。
人生は、、、どうなんでしょう。
思わずガッツポーズ決めるような人生は送ってないし、さりとてガッツポーズの人間を見ても羨ましいとか思わないし。
ずれたコメになっちゃいました。
ですからガッツポーズには、することにも見ることにもまったく縁がなく過ごしてきました。
さて、じゃぁ僕がガッツポーズする時はどんな時かなと考えてみると、ギャンブルでしょうか。この世界は負けた人間への配慮は要らないかな、と。負ける人間がいなければ成り立ちませんもの。この辺は競技と違うところでしょうね。
人生は、、、どうなんでしょう。
思わずガッツポーズ決めるような人生は送ってないし、さりとてガッツポーズの人間を見ても羨ましいとか思わないし。
ずれたコメになっちゃいました。
No title
夕べ我が家に来て騒いで帰った7つの孫、読書とかお話をさせると結構いけるけれどフラダンスのマネをしたら、まるで横綱の土俵入り、女の子としての色気ぜろ。
昨日来なかった7歳の男の孫は逆にスポーツ大得意、釣りなど大人顔負け、でも読書は怪獣図鑑とか魚図鑑。
どっちの親も欲張りだから人の子を羨むのです。
俺だけが多彩な孫に幸福でした。
全然、関係ないコメントでしたね。
昨日来なかった7歳の男の孫は逆にスポーツ大得意、釣りなど大人顔負け、でも読書は怪獣図鑑とか魚図鑑。
どっちの親も欲張りだから人の子を羨むのです。
俺だけが多彩な孫に幸福でした。
全然、関係ないコメントでしたね。
セイロンさん、フットワークよさそうだけど
ブログを拝見していると、フットワークの良さを感じるからスポーツは得意かと思っていました。人は見かけによらないものですね。でも、動体視力は良いんだろうな。
ブログのリニュアールおめでとうございます。(ご苦労様です)
ブログのリニュアールおめでとうございます。(ご苦労様です)
gakiさん、記事読みました。
世の中には、何の疑いも持たず受け容れている慣習や形式があります。でも、立ち止まって考えてみると「ヘンだなー」と思うものもたくさんありますね。オリンピックと言う舞台で、このような行動に出たのはすごい!
ひとつ思い出したことがあります。20代の頃、ある集会で、会場に日の丸を飾る手伝いを頼まれたことがありまました。思想信条以前に、集会の性質を考えるといかにもそぐわない日の丸でした。「肩が痛い。指先をヶガした」とか何とか言いながら手伝いを拒否しました。私のささやかな抵抗でした。
ひとつ思い出したことがあります。20代の頃、ある集会で、会場に日の丸を飾る手伝いを頼まれたことがありまました。思想信条以前に、集会の性質を考えるといかにもそぐわない日の丸でした。「肩が痛い。指先をヶガした」とか何とか言いながら手伝いを拒否しました。私のささやかな抵抗でした。
sahei爺さんが、目尻を下げながら
お孫さんのフラダンスを視ている姿が目に浮かびます。屈託のない子供のフラダンスは演出過剰のスポーツの対極にいると思います。
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調べてみると、もう一説ある。’72年に創刊された、ボウリング雑誌『週刊ガッツポール』がストライカーがするポーズを『ガッツポーズ』としたと。
最近の若者は、必要以上のパフォーマンスをし過ぎるが、勝者になって本当に嬉しい時は、自然とあのような“ポーズ”が出ることを、私もささやかながら経験しています。
近代になってオリンピックや、学校教育の方法としてスポーツが取り入れられるようになって、種々の制約や、規範が成立したのです。1800年代までは、実に堂々と、『勝ち』に拘る“勝負事”が行われていたようです。