敗者よ、復活せよ
私には人に誇れるような得意なスポーツはない。だから、スポーツはもっぱらテレビ観戦が主であるが近頃の小うるさい実況放送には辟易している、アナウンサーの絶叫を聞いただけでスイッチを切りたくなる。過度にショー化されたスポーツも興醒めする。
ウンザリしながらもしばらくは放送を眺めるが、我慢も限度に達して、ついにはスイッチを切ってしまう。私のような考えを持つ人は少なくないはずだが、上記の傾向はますますエスカレートしているような気がする。これらの手法はテレビ局が独自の美意識に基づいて作っていると言うよりは視聴者の望む最大公約数を具現化したものとみるのが妥当であろう。となると、私の考え方や感覚は少数派なのだ。私もだんだんと時代からズレ始めているようだ。まあ、しょうがないやね。
スポーツというと、もうひとつ気になることがある。野球選手がよくやる「ガッツポーズ」だ。ホームランを打った選手がベースを回るときに片手を挙げて「どうだ、今のホームランすごいだろう!」と誇示しているように見えるあのポーズのことだ。ガッツポーズというのは、私の解釈では「劣勢の時に自らを奮い立たせるために行うささやかなパフォーマンス」と言うことになるのだが、最近のよく目にするガッツポーズはどう見ても「勝利の雄叫び」にしか見えない。スポーツに限らず勝負事というのは一方に勝利者がいれば、片方は敗北者である。より多く努力したものが必ずしも勝利を手にするとは限らない。大変な努力をしたにも拘わらず、時の運や持って生まれた天分の差で負けることもある。しかし、敗者は「ああだこうだ」言わずに敗北を潔く受け容れる。スポーツが我々にカタルシスを与えてくれるのは、実にこの「潔さ」があるからだ。もちろん贔屓の選手が勝利した時に共有する「高揚感」も捨てがたいだが、私は敗北が決定したときの敗者ののうなだれ、敗北感に打ちひしがれているその姿を見るのも好きだ。感動を持って眺める。逆説的に言っているのではない。敗北が決まったときに彼の胸に去来するであろう勝ちたいがためにうちこんだ辛い練習のことや自分を支えてくれた人たちのこと、あるいは恋人のこと。やるせない屈辱感。簡単に気持ちの整理なんてできるわけがない。私には彼の複雑な胸中を知る由もないが、察することはできる。そして、今、まさに、敗者が「敗北の余韻」に浸っているとき、勝利者は傍らを、天に手を突き上げて、「勝利の雄叫び」をあげて通り過ぎる。。敗者の気持ちを慮れというのではない。歓喜のの気持ちを素直に表現することにケチをつけるつもりはない。表現の自由だから、どんなパフォーマンスをしようが自由だ。私が気に入らないのは「既成概念にとらわれない自由な表現」ができるのが若者の優れた点である、という私の思いこみを裏切って、猫も杓子も同じポーズをすることだ。若者よ、独創的であれ。手垢のついた表現なんてクソ食らえなんだぞ。
若者も生きている限りいずれは老いる。勝者も戦い続けている限りいつかは敗者になる。敗者だって復活することがあるのだぞ。言わなくても分かっているだろうが
ウンザリしながらもしばらくは放送を眺めるが、我慢も限度に達して、ついにはスイッチを切ってしまう。私のような考えを持つ人は少なくないはずだが、上記の傾向はますますエスカレートしているような気がする。これらの手法はテレビ局が独自の美意識に基づいて作っていると言うよりは視聴者の望む最大公約数を具現化したものとみるのが妥当であろう。となると、私の考え方や感覚は少数派なのだ。私もだんだんと時代からズレ始めているようだ。まあ、しょうがないやね。
スポーツというと、もうひとつ気になることがある。野球選手がよくやる「ガッツポーズ」だ。ホームランを打った選手がベースを回るときに片手を挙げて「どうだ、今のホームランすごいだろう!」と誇示しているように見えるあのポーズのことだ。ガッツポーズというのは、私の解釈では「劣勢の時に自らを奮い立たせるために行うささやかなパフォーマンス」と言うことになるのだが、最近のよく目にするガッツポーズはどう見ても「勝利の雄叫び」にしか見えない。スポーツに限らず勝負事というのは一方に勝利者がいれば、片方は敗北者である。より多く努力したものが必ずしも勝利を手にするとは限らない。大変な努力をしたにも拘わらず、時の運や持って生まれた天分の差で負けることもある。しかし、敗者は「ああだこうだ」言わずに敗北を潔く受け容れる。スポーツが我々にカタルシスを与えてくれるのは、実にこの「潔さ」があるからだ。もちろん贔屓の選手が勝利した時に共有する「高揚感」も捨てがたいだが、私は敗北が決定したときの敗者ののうなだれ、敗北感に打ちひしがれているその姿を見るのも好きだ。感動を持って眺める。逆説的に言っているのではない。敗北が決まったときに彼の胸に去来するであろう勝ちたいがためにうちこんだ辛い練習のことや自分を支えてくれた人たちのこと、あるいは恋人のこと。やるせない屈辱感。簡単に気持ちの整理なんてできるわけがない。私には彼の複雑な胸中を知る由もないが、察することはできる。そして、今、まさに、敗者が「敗北の余韻」に浸っているとき、勝利者は傍らを、天に手を突き上げて、「勝利の雄叫び」をあげて通り過ぎる。。敗者の気持ちを慮れというのではない。歓喜のの気持ちを素直に表現することにケチをつけるつもりはない。表現の自由だから、どんなパフォーマンスをしようが自由だ。私が気に入らないのは「既成概念にとらわれない自由な表現」ができるのが若者の優れた点である、という私の思いこみを裏切って、猫も杓子も同じポーズをすることだ。若者よ、独創的であれ。手垢のついた表現なんてクソ食らえなんだぞ。
若者も生きている限りいずれは老いる。勝者も戦い続けている限りいつかは敗者になる。敗者だって復活することがあるのだぞ。言わなくても分かっているだろうが
境界線の引き方
今ほど「表現の自由」が確保されていなかった時代に先人は幾多の事件や裁判をくぐり抜けながら、多少の制限はあるものの、私たちが当たり前のように享受している「表現の自由」を勝ち取ってきた。・・と書きだしてみたのだけれど・・・うーん、俺向きじゃないか、このテーマと思いつつも・・・
30年以上も前の話だが、お上の決めた「猥褻の」定義に釈然としないある写真家が写真展を開き、所轄の警察署にこんな文書を送った
「私は今○○会館で写真展を開いています。被写体は主に男の裸です。この男は類い希なる胸毛の持ち主で、是非ともこの立派な胸毛を芸術的表現に昇華させた上で皆さんにご披露したいと考えました。しかし、やっかいなことに、この人の胸毛は「下の毛」と区別がつきません。私にはその境界線がよく分からないのです。すでに当該写真は会場に展示してあるのですが、せっかくの芸術作品が「猥褻物陳列罪」で当局によって撤去されたり、私自身が検挙されたりしたら以後の私の創作意欲に水を差すことになるやもしれません。、現在は「毛」の部分はすべて白い布で覆ってあります。せっかくの美しい胸毛も今は見ることができません。そこで相談です。私はこれから毎日この布を1cmっづつ下方へ移動たいと考えているのですが当局にはご足労でも会場に足を運んでいただいた上で、「これ以上はヤバイ」というラインまで来たら布の移動にストップをかけていただきたいのです。どこまでの「毛」ならば遵法でどこからなら違法であるかの境界線を示していただきたい。さらに、わがままを言わせてもらえれば、あくまでも私の意図する芸術性にも配慮していただきたい。このお願いの目的はは、いわば「芸術」と「「猥褻」の境界線を指し示していただくということになります。勝手なお願いではありますがぜひご協力のほどお願い申し上げます
」と言う文章だったかどうかはもう忘れているが、まあ文意はこんなものだったのではなかろうか。残念ながら事の顛末がどうなったか私には分からない。
このまま「表現の自由」に論を進めるつもりで記事を書いたらとんでもなく長い文章になった上に、まとまりがつかなくなってきた。後日、このテーマは改めて書くこととして、テーマを少し変えて論を進める。たまたま奈良在住の「アテ料理研究家」が「境界線」に触れた記事を書かれていたので追随することにした。
境界線は誰の目にも分かるくっきりと太い実線で書き表せば、曖昧な解釈もできず分り易くてよいのだが、あまりに太い線は、線そのものの領域がどちらに属するかで悩まなくてはならなし、細い線は線の存在そのものが疑われる。トラブルを防ぐために考えられた境界線も実のところは万能ではなく、無段階に連続した領域や事柄、玉虫色の領域に無理矢理境界線を引くというのは大変難しい作業になる。卑近な例を引く。「禁煙」というのはタバコを1本も吸わない状態を言うのだろうが1本くらいなら吸っても、限りなく0本に近いのだから、これも禁煙のうちだろうし、たとえ2本吸ったとしても限りなく1本に近いから、これも禁煙状態なるはずだし、仮に3本吸ったとしても限りなく2本に近いのであるから・・・4本だって・・・。
われわれは事の善悪を選択したり、与えられた課題を解くときに知恵を絞って境界線を引かなくてはならない。、どこにその線を描き記すかによって判断結果は変わってくる。振り返ってみると、私は過去にこの線引きで随分多くの過ちを犯したような気がするし今後も線引き作業で悩ましい日々を送らなければならないのだが、私の能力を超えた線引き作業は、正直に言えばウンザリだ。
30年以上も前の話だが、お上の決めた「猥褻の」定義に釈然としないある写真家が写真展を開き、所轄の警察署にこんな文書を送った
「私は今○○会館で写真展を開いています。被写体は主に男の裸です。この男は類い希なる胸毛の持ち主で、是非ともこの立派な胸毛を芸術的表現に昇華させた上で皆さんにご披露したいと考えました。しかし、やっかいなことに、この人の胸毛は「下の毛」と区別がつきません。私にはその境界線がよく分からないのです。すでに当該写真は会場に展示してあるのですが、せっかくの芸術作品が「猥褻物陳列罪」で当局によって撤去されたり、私自身が検挙されたりしたら以後の私の創作意欲に水を差すことになるやもしれません。、現在は「毛」の部分はすべて白い布で覆ってあります。せっかくの美しい胸毛も今は見ることができません。そこで相談です。私はこれから毎日この布を1cmっづつ下方へ移動たいと考えているのですが当局にはご足労でも会場に足を運んでいただいた上で、「これ以上はヤバイ」というラインまで来たら布の移動にストップをかけていただきたいのです。どこまでの「毛」ならば遵法でどこからなら違法であるかの境界線を示していただきたい。さらに、わがままを言わせてもらえれば、あくまでも私の意図する芸術性にも配慮していただきたい。このお願いの目的はは、いわば「芸術」と「「猥褻」の境界線を指し示していただくということになります。勝手なお願いではありますがぜひご協力のほどお願い申し上げます
」と言う文章だったかどうかはもう忘れているが、まあ文意はこんなものだったのではなかろうか。残念ながら事の顛末がどうなったか私には分からない。
このまま「表現の自由」に論を進めるつもりで記事を書いたらとんでもなく長い文章になった上に、まとまりがつかなくなってきた。後日、このテーマは改めて書くこととして、テーマを少し変えて論を進める。たまたま奈良在住の「アテ料理研究家」が「境界線」に触れた記事を書かれていたので追随することにした。
境界線は誰の目にも分かるくっきりと太い実線で書き表せば、曖昧な解釈もできず分り易くてよいのだが、あまりに太い線は、線そのものの領域がどちらに属するかで悩まなくてはならなし、細い線は線の存在そのものが疑われる。トラブルを防ぐために考えられた境界線も実のところは万能ではなく、無段階に連続した領域や事柄、玉虫色の領域に無理矢理境界線を引くというのは大変難しい作業になる。卑近な例を引く。「禁煙」というのはタバコを1本も吸わない状態を言うのだろうが1本くらいなら吸っても、限りなく0本に近いのだから、これも禁煙のうちだろうし、たとえ2本吸ったとしても限りなく1本に近いから、これも禁煙状態なるはずだし、仮に3本吸ったとしても限りなく2本に近いのであるから・・・4本だって・・・。
われわれは事の善悪を選択したり、与えられた課題を解くときに知恵を絞って境界線を引かなくてはならない。、どこにその線を描き記すかによって判断結果は変わってくる。振り返ってみると、私は過去にこの線引きで随分多くの過ちを犯したような気がするし今後も線引き作業で悩ましい日々を送らなければならないのだが、私の能力を超えた線引き作業は、正直に言えばウンザリだ。
NEC オリンパスに物申す!
パソコンの具合が悪い。突然電源が落ちるのだ。致命的な不具合だ。この1週間不安定な状態が続いた。ブログの更新が遅れたのも、こいつのせいである。いつ何時悪魔が襲ってくるかわからない。電源が落ちればウンウン唸って書いた記事も一瞬にしてパーになる。こうしてキーを打っている間も、その恐怖におののいている。故障の原因がわからず、いろいろ試してみたが、私の能力では対応できない。そこで、NECのサポートセンターへ、ということになったが予約制で、もうすでに4日ほど後まで予約がいっぱいだ。修理に出せばいいのだろうが、いったい修理完了まで何日かかることやら、見当もつかない。つい先日も、オリンパスのデジカメを修理に出したら直ってくるまで2週間かかった。ブログの更新はともかくとして、私のような零細自営業であっても、今や、パソコンは携帯電話と並んで、必要不可欠のものとなった。私の仕事に関して、詳しいことはいづれ記事にするつもりであるが、簡単に言えば空調工事業ということになる。私の仕事も修理業務がともなう。しかし、PCやカメラのように、「2週間お待ちを」などとのんびりした対応はできない。冷房なぞまだ不要なはずの5月でも、取引先からの「○○さんのところへすぐ行って」と携帯に連絡が入り、現場が追われていて手を離せない旨説明しても、「いやならいい!ほかへ頼むから!」と恫喝される。
しぶしぶ修理現場へ急行してみれば、「ごめんなさい。電源入れ忘れていた」と一言。そうならそうと電話ぐらいくれよ。出張料請求すれば、「修理してもらったわけじゃないから払えない」といいやがる。けったくそ悪いから、粘って出張料もらって帰ると、予想したとおり取引先から電話。「お客が怒ってかんかんだ。すぐ金を返してこい!」と一方的にまくし立てる。事情説明しても聞く耳持たずで、こちらが悪者扱い。近頃、何を勘違いしているのか、このようなプチ権力者が私の周りにはうようよいる。「こちとらボランティアじゃないのだ。商売だ。金を返してほしければ、テメーが取りに来い!」と声を出さずに心の中だけで叫ぶ。意気地のない対応で応酬するだけで、実りなき不毛の数時間はやりきれない気分だけを残して去っていく。
われわれのように現場関係が主体の業者にとって、雪国(新潟県)のハンディは非常に大きく、12月の半ばから3月半ばまで積雪があれば、仕事ができない。開店休業が4ヶ月間続く。いきおい残された、8ヶ月間は超多忙な繁忙期が続く。4ヶ月間の減収を取り戻さなければならないのだ。人員の確保も、繁忙期に合わせれば、冬季間無駄な給料を払わなければならず、冬季間に合わせれば、繁忙期には人手が足りなくなる。創業当時考えていた「いっぱい儲けていっぱい払う」は実現しそうにない。
ここで、話はNECとオリンパスへ戻る。われわれのような零細業者が、四苦八苦しながら、経営を維持し、迅速な対応で、客の要望に応えているにもかかわらず、大企業、大資本のユーザーに対する対応は、サポート要員を増員すればスピーディーに進めることができるはずなのになおざりにしたまま。わづか数人の零細業者が、雪国と言うハンディを背負いながら、業務が円滑に進むように人員の確保をしているのだから、大企業がサポート、修理体制を、人員の確保で、円滑かつスピーディーに進めることは容易なはずだ。ケチケチしないで、人件費を増やせばいいのだ。どこの国の話だか知らないが、都では大企業は軒並み好決算だということだ。儲けさせてやったのだから(俺がというわけではないけれど)、生きた金の使い方をしろ。生きた金の使い方がわからなければ、私がいくらでも教えてやる。
今日は不思議とパソコンの調子がいい。久しぶりの更新もあと少し。田植えが終わったら、ウスラ寒い日が続いている。夏は猛暑になってエアコンがよく売れないかなと念じている今日この頃であります。
しぶしぶ修理現場へ急行してみれば、「ごめんなさい。電源入れ忘れていた」と一言。そうならそうと電話ぐらいくれよ。出張料請求すれば、「修理してもらったわけじゃないから払えない」といいやがる。けったくそ悪いから、粘って出張料もらって帰ると、予想したとおり取引先から電話。「お客が怒ってかんかんだ。すぐ金を返してこい!」と一方的にまくし立てる。事情説明しても聞く耳持たずで、こちらが悪者扱い。近頃、何を勘違いしているのか、このようなプチ権力者が私の周りにはうようよいる。「こちとらボランティアじゃないのだ。商売だ。金を返してほしければ、テメーが取りに来い!」と声を出さずに心の中だけで叫ぶ。意気地のない対応で応酬するだけで、実りなき不毛の数時間はやりきれない気分だけを残して去っていく。
われわれのように現場関係が主体の業者にとって、雪国(新潟県)のハンディは非常に大きく、12月の半ばから3月半ばまで積雪があれば、仕事ができない。開店休業が4ヶ月間続く。いきおい残された、8ヶ月間は超多忙な繁忙期が続く。4ヶ月間の減収を取り戻さなければならないのだ。人員の確保も、繁忙期に合わせれば、冬季間無駄な給料を払わなければならず、冬季間に合わせれば、繁忙期には人手が足りなくなる。創業当時考えていた「いっぱい儲けていっぱい払う」は実現しそうにない。
ここで、話はNECとオリンパスへ戻る。われわれのような零細業者が、四苦八苦しながら、経営を維持し、迅速な対応で、客の要望に応えているにもかかわらず、大企業、大資本のユーザーに対する対応は、サポート要員を増員すればスピーディーに進めることができるはずなのになおざりにしたまま。わづか数人の零細業者が、雪国と言うハンディを背負いながら、業務が円滑に進むように人員の確保をしているのだから、大企業がサポート、修理体制を、人員の確保で、円滑かつスピーディーに進めることは容易なはずだ。ケチケチしないで、人件費を増やせばいいのだ。どこの国の話だか知らないが、都では大企業は軒並み好決算だということだ。儲けさせてやったのだから(俺がというわけではないけれど)、生きた金の使い方をしろ。生きた金の使い方がわからなければ、私がいくらでも教えてやる。
今日は不思議とパソコンの調子がいい。久しぶりの更新もあと少し。田植えが終わったら、ウスラ寒い日が続いている。夏は猛暑になってエアコンがよく売れないかなと念じている今日この頃であります。
明日世界はどうなっているか、わからない。でも私は今日林檎の木を植える。
タイトルの言葉はsaheiziさんの、拙ブログのケヤキの話に対するコメントから引用したものです。この言葉はまさに、今日話をしようと思っていた「杉」の話にぴったりの言葉です。まるで、今日の話を予想していたかのごとくです。
杉は国内のいたるところに植林されている(北海道を除く)樹木で、貴重な森林資源です。花粉のいたずらから、多分、最も嫌いな木のNO1にランクされる木でもあります。「真っ直ぐ」という言葉が杉の語源だということからも分かるように、杉の木は天に向かって真っ直ぐ伸びている。建築材料に使うのだから真っ直ぐでなければならないのです。盆栽でも杉は、松や真拍のように針金を使ってくにゃくにゃ幹を曲げる、というようなこしゃくな仕立て方はしません。あくまでも真っ直ぐ、直幹仕立てです。実は、この「真っ直ぐ」は人の手がかかっている、というのが今日の話です。
私が小学校高学年の頃だから、今から45年位前の話です。杉は植林されてからしばらくの期間、冬期間雪の重みで倒伏するために、春になると「杉起こし」という作業をする。この杉起こしの作業に、私は祖父(菜っ葉さえあればいいと言ったあの祖父)に日曜日のたびにかりだされた。これが、いやでいやでしょうがなかった。遊びたい盛りの年頃で、じいちゃんと2人で山に篭るというのはあまり魅力的な話ではない。「一人では大変だから、○○頼む」といわれると、不承不承「うん、わかったよー」と、ふてくされたような返事で答えたものだ。急登の山道を歩くのだから小一時間もかかるようなところへ、弁当かついで登った。。もうすでに腰の曲がっていた祖父は、歩くこともままならず、私はお構いなしで、先をぐんぐん歩いた。いわば独走態勢であります。ところが、いつの間にかスタミナ切れを起こした私は祖父に追いつかれる。「なんだこのじいちゃん、腰が曲がっているのになんで、俺より早いんだ」と思いつつ、あとは、もう祖父について行くのがやっとという状態。現地へつくとすぐに作業開始。あっちを引っ張れだのこっちを引っ張れだのの声に従って、もっぱら引っ張り役が私の役割で、祖父は縄を器用に男結びに結わえる。「早く終わらねーかな」といつまでも往生際の悪い私は、いかにもいやいやという態度で手伝う。祖父も私の態度は十分分かっていたはずだが、そのことはなにも指摘せず、休憩のたびに「悪いな」と言っていた。それでも、「そう思ったらこんな仕事俺に頼むなよ」と心の中で毒づいたものでした。3,4日続いた作業も今日で終了という日に祖父は私に「なあ○○この木がでっかくなったら、お前が家を建てる時に使ってくれ。もうそん時には俺は死んでいるけどな」と、作業終了の満足感にひたった顔で言った。家を建てると言っても、当時の私に実感が湧くはずもなく、「うん」とは答えたものの、ほとんど上の空の返事。祖父にとってみれば孫かわいさの作業であったにもかかわらず、当の孫(つまり私)に不快な態度をされていたのだから、浮かばれないというところでありましたが、私のその態度を責めることはなかった。今となれば「じいちゃん、悪かったなー」と言える。今さらだ、もう遅い。
その杉の木は今、立派に生長した。家を建てるには十分なほどに大きくなった。先年私が家を建てるときこの杉の木は使わなかった。木を切り出して製材する費用のほうが、外材を購入するより高くつくと言う理由からだった。ますます祖父は浮かばれない。少しくらい高上がりであってもあの杉の木を切り出すべきだったと、後悔している。今、あの杉の木は杉起こしの必要もなく、何も手がかからず、日々わずかづかづつ成長ている。いずれ、屋久島の杉のような大木になるのか?朽ちるまで、材木としての役割はまっとうせず、光合成でCO2を吸収しながらわれわれに酸素を供給し続けるだけなのか?
「じいちゃん、あの杉の木、それなりに役に立っているよ」
杉は国内のいたるところに植林されている(北海道を除く)樹木で、貴重な森林資源です。花粉のいたずらから、多分、最も嫌いな木のNO1にランクされる木でもあります。「真っ直ぐ」という言葉が杉の語源だということからも分かるように、杉の木は天に向かって真っ直ぐ伸びている。建築材料に使うのだから真っ直ぐでなければならないのです。盆栽でも杉は、松や真拍のように針金を使ってくにゃくにゃ幹を曲げる、というようなこしゃくな仕立て方はしません。あくまでも真っ直ぐ、直幹仕立てです。実は、この「真っ直ぐ」は人の手がかかっている、というのが今日の話です。
私が小学校高学年の頃だから、今から45年位前の話です。杉は植林されてからしばらくの期間、冬期間雪の重みで倒伏するために、春になると「杉起こし」という作業をする。この杉起こしの作業に、私は祖父(菜っ葉さえあればいいと言ったあの祖父)に日曜日のたびにかりだされた。これが、いやでいやでしょうがなかった。遊びたい盛りの年頃で、じいちゃんと2人で山に篭るというのはあまり魅力的な話ではない。「一人では大変だから、○○頼む」といわれると、不承不承「うん、わかったよー」と、ふてくされたような返事で答えたものだ。急登の山道を歩くのだから小一時間もかかるようなところへ、弁当かついで登った。。もうすでに腰の曲がっていた祖父は、歩くこともままならず、私はお構いなしで、先をぐんぐん歩いた。いわば独走態勢であります。ところが、いつの間にかスタミナ切れを起こした私は祖父に追いつかれる。「なんだこのじいちゃん、腰が曲がっているのになんで、俺より早いんだ」と思いつつ、あとは、もう祖父について行くのがやっとという状態。現地へつくとすぐに作業開始。あっちを引っ張れだのこっちを引っ張れだのの声に従って、もっぱら引っ張り役が私の役割で、祖父は縄を器用に男結びに結わえる。「早く終わらねーかな」といつまでも往生際の悪い私は、いかにもいやいやという態度で手伝う。祖父も私の態度は十分分かっていたはずだが、そのことはなにも指摘せず、休憩のたびに「悪いな」と言っていた。それでも、「そう思ったらこんな仕事俺に頼むなよ」と心の中で毒づいたものでした。3,4日続いた作業も今日で終了という日に祖父は私に「なあ○○この木がでっかくなったら、お前が家を建てる時に使ってくれ。もうそん時には俺は死んでいるけどな」と、作業終了の満足感にひたった顔で言った。家を建てると言っても、当時の私に実感が湧くはずもなく、「うん」とは答えたものの、ほとんど上の空の返事。祖父にとってみれば孫かわいさの作業であったにもかかわらず、当の孫(つまり私)に不快な態度をされていたのだから、浮かばれないというところでありましたが、私のその態度を責めることはなかった。今となれば「じいちゃん、悪かったなー」と言える。今さらだ、もう遅い。
その杉の木は今、立派に生長した。家を建てるには十分なほどに大きくなった。先年私が家を建てるときこの杉の木は使わなかった。木を切り出して製材する費用のほうが、外材を購入するより高くつくと言う理由からだった。ますます祖父は浮かばれない。少しくらい高上がりであってもあの杉の木を切り出すべきだったと、後悔している。今、あの杉の木は杉起こしの必要もなく、何も手がかからず、日々わずかづかづつ成長ている。いずれ、屋久島の杉のような大木になるのか?朽ちるまで、材木としての役割はまっとうせず、光合成でCO2を吸収しながらわれわれに酸素を供給し続けるだけなのか?
「じいちゃん、あの杉の木、それなりに役に立っているよ」
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